理系大学院生が統計哲学を学ぶ理由とその意味

生命・化学系大学院生である自分がなぜ統計哲学を学びたいと思ったのか。

 

※自分は決して統計や数学の専門家ではありません。間違っていたらコメントなどお寄せください。

 

論理学と統計的推論は自然科学のあらゆる分野の基礎となっている。自然科学に必要な(人によっては意識する必要はないかもしれないが)演繹論理は数理論理学やウィトゲンシュタインによる論理哲学論考から学ぶことができる。対して、統計学は観測された事象の背後にあるモデルを推定し、自然の法則を見つけ出す。

 

 

高校までの理論的な物理や化学の数式では、論理的推論のみをもとに、さも値が一つに決まるかのように錯覚してしまう。だがしかし経験的事実として、現実に観測される値は一定ではなく、人為的なミス、装置の性能や偶発的な事象、また現象そのものに内包されるばらつきが存在する。これらを記述し背後にある関係を推測するために用いられるのが数理統計学である。また統計学理論物理学に大きな影響を与えており、統計物理学や量子力学も対象のばらつきや確率的な動きを扱う。

 

 

統計学の大枠が統計の教科書を読んだだけでは見えなかった。また統計学の理論に対する違和感が自分には常にあった。統計学の背後にある前提は何か。確率分布とはいったいなんなのか。これらを知り、いくつかの前提にたつことで統計学の使用の際に悩まないようにしたいのである。

 

批判も多いが「統計学を哲学する」(大塚淳著)と「科学と証拠 統計の哲学入門」(エリオットソーバー著)の日本語訳を今度読んでみることにする。

 

理系大学院生のビオラ練習日記(2022/7/9)

大学入学と共にオーケストラ部に入りビオラを始め4年と少し。部活を引退して大学院入学後も研究の合間に細々とビオラを続けている。日々の練習で気づいたことやできるようになったことを忘れないために備忘録をつける。

 

楽器の練習は頭と身体の共同作業である。これはあらゆるスポーツにいえるかもしれない。どういう音を出したいか。曲にせよ音階にせよまず理想が頭の中にある。それをどうやって実際の音に落とし込むか。結局楽器を弾くというのは、身体運動である。従って楽器を弾く最適な動きが頭の中でイメージできなくてはならない。それに従って体を動かす。そうしてまた出てきた音の良さを判断し、頭で考え身体の動きにフィードバックする。楽器の練習とはとどのつまりそういうものであると勝手に考えている。

 

そもそも頭の中で音楽がイメージできていない。もしくはイメージの質が良くないということもある。頭で鳴っているリズムや音程、アーティキュレーションがよくないといったことはこれにあたる。そういう場合は楽器を置きまず譜面と向き合うことから始める。レッスンに行き、自分よりもはるかに経験を積んだプロ奏者に教えてもらうこともいいだろう。部活にいるときは先輩などにも教えていただいていた。

 

クラシックの演奏には表に見える華々しい表現の土台に何重にも折り重なった基礎がある。基礎はその要素ごとに分解・分析され、全体と釣り合わなければならない。この基礎力を向上させることがクラシック演奏の最も大変なところである。現在私の基礎課題は、左手である。

 

左手といってもいくつか要素があり、それらは楽器の構え方、手の形、指の置き方、離し方など様々ある。これら要素は音程の安定性、音の響き、歯切れの良さに大きな影響を与えている。

 

音程の安定性を高めるには指は指板に置かれていた方がよい。歯切れのよい音を目指すなら左手に力が入っていてはいけない。指は指板の少し上にあり必要な位置に置かれていればいい。指を離す際は手の動きで自然に指が上がる方向に話す。

 

今日はこの後、アマオケの練習がある。その感想はまた後日書きたい。

 

 

 

 

 

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